北陸帝国大学構想

北陸帝国大学設立に関する建議

金沢(市)に北陸帝国大学を設置することは多年にわたる要望であり,明治末以来幾度か帝国議会に建議案が提出され可決されてはいるが,いずれも実現には至らなかった。
明治44(1911)年1月31日,第27回帝国議会に「北陸帝国大学設立に関する建議案」が戸水寛人らによって提出された。東京,京都,東北,九州に次ぐ北陸帝国大学の設立を望む建議である。

建議案は2月4日,議長指名の特別委員9名に付託される。2月6日の「北陸帝国大学設立に関する建議委員会議録」では,戸水は,現在4つの帝大があるが,大学の絶対数が少ない点とその分布状況から北陸に帝大が必要であることを指摘する。これに対し文部大臣小松原英太郎は今は必要がないと回答する。こういった審議のあと委員会では,特に反対意見がないということで「全会一致を以て可決」となる。2月18日には,全会一致で可決したとの委員長報告があり,その報告のとおり本会での可決となる。第27回帝国議会の会期中,提出された建議案は80件,うち65件が可決されている。当時の議会では「可決」即ち「実施」ではなかったようである。

■戸水寛人
戸水寛人は,文久3年(1863)生まれ。加賀藩本多家旧臣。明治13(1880)年石川県中学師範学校卒業。同校の一級下には大正期に文部大臣となる中橋徳五郎がいる。明治15(1882)年戸水は中橋とともに県費留学生として選抜され,東京大学法学部選科生となるが,途中予備門の卒業試験を受け本科に編入される。19(1886)年7月帝国大学法科大学卒業。帝国大学令の制定(明治19(1886)年3月)によって設置された大学院に入る。英国留学を経て,同27(1894)年帝国大学法科大学教授。教授時代に引き起こした有名な七博士事件がある。

■帝大七博士事件
日露戦争前後,東京帝国大学法科大学を主とする戸水ら教授グループは,対ロシア強硬外交を主張,政府を攻撃する。これに対し同学総長山川健次郎は同38(1905)年8月,中心人物である戸水を休職処分に付したが,処分に対する手続き上の責任のため山川が辞職,後任が任命された。この処置に教授側は政府に抗議。研究活動の自由,大学の自治をめぐる論争となり,翌39(1906)年1月戸水は復職し,一応の解決となる。

戸水は明治41(1908)年5月の第10回衆議院議員総選挙に立候補,保守勢力である立憲政友会に大勝する。この選挙には「第四高等学校の学生が白熱的声援を与え」たという(『石川県史第4編』)。翌42(1909)年5月には立憲政友会に入党,同年12月,大学を辞職,政治活動に専心した。衆院選では5回当選している。

戸水は明治44(1911)年の「北陸帝国大学設立に関する建議案」につづき,翌45(1912)年に第28回帝国議会に「金沢高等工業学校設立に関する建議案」を提出している。提案理由の説明には,工業教育を充実する必要,金沢は美術・工業が盛んであること,県立工業学校(明治20(1887)年創立)が効果をあげていることを示している。この提案は,中橋徳五郎の文相時代に金沢高等工業学校の設置(大正9(1920)年)となって実現している。

 

 

戦後の北陸総合大学構想

金沢市に北陸帝国大学設置に関する建議案

明治19年(1886)文部大臣森有礼は「帝国大学令」を公布。強力な中央集権国家をめざす明治政府は,東京大学を改編し,「国家の須要に応ずる学術技芸を教授しその蘊奥(うんのう)を攻究する」(第1条)帝国大学を設置した。明治30(1897)年に京都にも帝国大学が設置され,「帝国大学」は東京帝国大学と改称する。以後,東北・九州・北海道・大阪・名古屋に7帝国大学,植民地にも京城・台北帝国大学がおかれた。  なお,大正7(1918)年の「大学令」で官立単科大学,公立大学,私立大学が法認されたが,帝国大学は別格であった。

昭和21(1946)年に既存の7帝国大学は政令により国立総合大学と改称される。構想にあげられている「北陸総合大学」とは,帝国大学型の大学を志向するものと思われる。

金沢市に旧帝大型の総合大学を設置する運動は,戦後の比較的早い時期に,市民レベルで展開された。
昭和21(1946)年6月3日,「北陸総合大学設置期成同盟会」の結成会が県庁で挙行された。地元関係者の他,富山・福井各県知事,富山・福井・敦賀各市長が出席。同年8月には,第90回臨時帝国議会に「金沢市に北陸帝国大学を設置に関する建議案」が提出された。この議会では憲法改正草案が提出され,草案の逐条審議,小修正が行われている。北陸帝国大学設置の建議案は「審議にいたらなかった」(『金沢大学十年史』)。

建議案は,帝国大学が最高の教育研究機関であると共に,「地方開発振興の推進力」であるとし,従来の帝国大学が太平洋側に偏在する弊をあげ,北陸の雄都としての伝統,学都としての基底を考慮し,北陸地方に帝国大学の恩恵をと提案している。
昭和22(1947)年3月31日の「教育基本法」(同日施行)と,「学校教育法」(翌4月1日施行)の公布で,旧憲法下にありながら(「日本国憲法」は昭和21(1946)年11月3日公布,昭和22(1947)年5月3日施行)新教育体制に入った。
この後も期成同盟会は文部当局等に折衝・打診を繰り返し,「柴野県知事来沢し,総合大学は文部相と折衝の結果非常に有望で,工専昇格を含めて北陸総合大学設置問題を考えていきたいとの談話発表。」(昭和22(1947)年5月14日)(『創設資料 壱巻』,『金沢大学十年史』)とあり,この時点では富山や福井を含めた国立総合大学設立は一部で有望視されていたようである。昭和22(1947)年8月,第1回国会にも請願書・陳情書が提出されている。
旧帝大型の国立総合大学設置をめざした運動は,この時期,石川の他,岡山,広島,新潟等でも展開された。

 

 

北陸総合大学設立準備委員会
国立北陸総合大学設置(ママ)準備委員会設置要項
昭和22(1947)年3月31日,「教育基本法」(同日施行),「学校教育法」(翌4月1日施行)の公布により新学制が実施された。学校教育法により学校別の勅令は廃止され,6・3・3・4の単線型の学校制度が採用される。昭和22(1947)年7月には大学基準協会によって大学基準が制定された。
「従来の如く関係官庁への陳情,議会への請願建議による国立大学の誘致は従たる立場となり今後は大学設置基準委員会の審査を受け文部省はこれを認証するという新形式となってきたのである」,「基準に副うた各種施設をなす事が必須の条件となってきた」,「設置期成同盟会は発展的に解消」,「北陸総合大学設立準備委員会を設置」等,新体制への対応の姿勢がうかがえる。同委員会設置は22(1947)年11月4日である。

委員は,柴野和喜夫石川県知事を委員長に,石川県選出代議士,石川県議会議員,金沢市議会議員,石川県町村長,石川県商工会議所,金沢・小松・七尾市当局,直轄専門学校長,石川県当局,学識経験者で構成される。(「北陸総合大学設立準備委員会機構」『創設資料 壱巻』)

 

北陸総合大学の設置について(手書き)昭和23(1948)年1月(『創設資料 壱巻』)

金沢に総合大学を設置しようとする運動は,昭和21(1946)年6月に始まった北陸総合大学設置期成同盟会の活動が端緒であるが,当初は「未だ大学創設の目鼻も付かず,実行運動は至って地味なものであった。中央に陳情したり,在京県関係者の援助を懇請したり,地元案をあれこれいぢくっている程度であった。」といわれる。(「金沢大学の誕生」『金沢大学事務通報第1巻第8号』山知外男,昭和25(1950)年9月)
昭和22(1947)年4月の教育基本法,学校教育法の施行によって「大学創設運動も暗中模索の時代から一縷の光明を見いだしうる段階に立ち至った」。とされる。(同上)北陸総合大学設置運動は福井・富山両県を除いた「石川県限り」のレベルに入る。その後,総合大学の名称は「北陸大学」から「金沢大学」に改称された。
手書き資料は,『創設資料』の中で特に急進的な書き方をしている。例えば「全国的に眺めて新制度による最初の総合大学をどこかの地におくとしたなら金沢は其の唯一の候補地となるであろう」との記述には,関係者の熱意や意気込みをうかがうことができる。

そして,この前後に中央の政策レベルでは,高等教育機関の地方移譲問題が表面化する。

昭和22(1947)年12月4日付『東京新聞』に「官立大学高専の地方移譲,審議を急ぎ近く実現」「旧帝大など十大学は官立に」との見出しで地方移譲構想が報道された。7校の旧帝国大学に北陸・中国・四国の3校の総合大学を加えて,10校を国立総合大学とし,残りの官立高等教育機関を全て地方に移譲するという,CI&Eの提案による構想である。
この構想では,中国・四国地方に加えて,旧帝国大学に準ずる総合大学が金沢に設置される可能性があったことになる。しかし,各地方の教育委員会の水準が大学維持にまで達しない,地方の政治的利権が絡むと大学の自由と自治が損なわれるおそれがある,等の理由から(教育刷新委員会第五十回総会,昭和22(1947)年12月26日),翌23(1948)年1月末には地方移譲案は立ち消えとなった。

 

北陸大学設立趣意書

「趣意書」は「新生日本の理想は~」で始まる。「金沢の地は300年来雄藩の城下として」「高き文化の伝統」を持ち,金沢医科大学を初めとする高等教育機関を有し「学都たる実を備えている」。また旧金沢城址の利用が可能であること,非戦災都市であること,「この地方の特殊な気候風土,未開発の天然資源,独自の民情風俗等」が学術の対象となり得ることを挙げ,「新制度による総合大学建設地」としては最適であるとし,石川県民のみならず隣接県民の等しく切望するところであると結んでいる。

 

 

 

北陸総合大学設立要項

昭和23(1948)年1月に文部省に提出された「北陸総合大学設立要項」では,金沢美術工芸専門学校(昭和21(1946)年設置)を母体校とした美術学部と,金沢高等師範学校(昭和19(1944)年設置),石川青年師範学校(昭和19(1944)年設置)を母体校とした農学部をを含む8学部編成が提案された。後,「文部省より去る1月17日提出済みの設立要項に関し,同計画の中の学部より美術農の両学部を除いた,医,薬,工,理,法文,教育の6学部編成を以て創設事業を推進するよう指示」があり,以後これに従うことになる。(「経過概要23年3月25日の項」,『創設資料vol.1』)

 

 

 

 

 

北陸大学設立認可申請書

昭和22(1947)年3月31日公布(翌4月1日施行)の学校教育法に定める大学設置認可に関する条文は次のようである。
(1)学校を設置するには監督庁の定める設置基準に従う(第3条),(2)学校の設置廃止は監督庁の認可を受ける(第4条),(3)大学の設置認可に関して,監督庁は大学設置委員会に諮問する(第60条)

大学設置認可を求める高等教育機関は文部大臣に対して設置認可申請書を提出する。申請書は文部大臣の諮問機関である大学設置委員会(昭和22(1947)年12月設置)で検討,答申される。この時大学設置委員会が採用した大学設置認可基準は,大学基準協会が制定した大学基準をそのまま採用したものである。

大学基準協会は,昭和22(1947)年7月「会員の自主的努力と相互的援助によって我が国における大学の質的向上をはかる」ことを目的に設立,自主的運営をする民間の専門団体であって,大学基準は同協会によって,設立と同時に,大学基準協会に加入するための会員の資格審査基準として提示されたものである。大学設置委員会と大学基準協会のメンバーは相互に流動的で,大学設置委員の半数は大学基準協会の推薦するもので構成された。

この大学基準を,文部大臣の諮問機関である大学設置委員会が大学設置認可基準として運用した。CI&Eの指導による,大学は,大学自身によって制定された基準に基づいて認可されるという理念に基づいていた。

文部省は「昭和23年5月5日付 発学144号通牒」で大学設置認可申請書提出期限が7月末日であることを通知した。

これに対し,北陸大学実施準備委員会(昭和23(1948)年5月14日,北陸総合大学設立準備委員会を北陸大学実施準備委員会と改称する)は,7月末日よりはるかに早い5月31日付で「北陸大学設置認可申請書」を提出している。金沢における大学設置の推進運動は,昭和21(1946)年6月から市民レベルで活動を始め,昭和22(1947)年11月からは石川県・官立校を中心として公的な機関として本格的に取り組んできた。設置認可申請書作成のための準備は,既に整っていたといえる。

北陸大学設置認可申請書:「学校教育法施行規則」第2条と第3条により,学校の目的・名称・位置・学則・経費および維持方法・学校開設の時期が記載されている。さらに校地・校舎・体操場・寄宿舎等の図面を添付。学則には修業年限教科課程および授業日数に関する事項を記載。

 

 

 

 


北陸大学設置理由書:「金沢市は藩政の昔より」と,金沢の歴史的背景と7校の直轄学校の伝統に触れ,新制国立総合大学の建設は「地方住民の文化的要望と世論にこたえ」るものとし,金沢城址の旧軍施設をはじめキャンパスが市の中心部から1.5キロ以内の近距離にあることをもって,設置の理由としている。

 

 

 

 


北陸大学設置認可申請書「第十三 将来計画の概要」:北陸大学設置認可申請書の末尾の項である。農学部,美術学部,工学部附属漆器研究所,理学部漁業気象観測所等が興味深い。いずれの機関も,現実には設置されなかった。

 

 

 

 


発学144号大学設置認可について(『創設資料 参巻』)昭和23(1948)年7月14日文部省学校教育局長 日高第四郎 発,官公私立大学長・官公私立高等学校長・官公私立専門学校 宛):5月5日付発学144号通牒で設置認可申請を7月末日までに提出せよとの通知に対し,校地(図面添付)・校舎等建物(図面添付)・図書標本機械器具等施設・教員個人調等に関しては,提出期限に遅れてもよいという通知

 

 

 

 

 

大学設置委員の実地調査について (『創設資料 参巻』) 昭和23(1948)年10月25日,大学設置委員会委員長 和田小六 発,新制大学設置認可申請校長 宛

 

 

 

 

 

 

 

発庶号外 大学設置委員の視察について (『創設資料 参巻』)昭和23(1948)年11月7日,金沢大学実施準備委員会委員長 柴野和喜夫 発,準備委員 宛

 

 

 

 

 

 

大基協第4号ノ24 大学設置認可申請書写提供方依頼について,昭和23(1948)年7月23日,大学基準協会 和田小六 発,(新制大学創設事務責任者)金沢医科大 石坂伸吉 宛:大学設置認可の方式が整備されると,旧制の官立高等教育機の,学校教育法に定める新制国立大学への再編が進められる。この時の基本方針となるものが,正しくは「新制国立大学実施要項」,いわゆる国立大学設置に関する11原則である。

「(イ)新制国立大学は特別の地域を除き同一地域にある官立校はこれを合併して1府県1大学の実現を図る。」とあるように,旧制の官立校を統合,1府県1大学の原則を提示している。11原則は,昭和23(1948)年6月までには文部省とCI&Eの協議で決定していたとされる。

 

 

 


教育宝くじ・寄付

「北陸総合大学設置に関する啓蒙宣伝要項 昭和23年2月3日 石川県」(『創設資料 壱巻』)

昭和23(1948)年2月3日付の,大学設置に県民の関心を喚起する広報活動の要領に関する文書である。

「北陸総合大学を金沢市に設置することは,北陸地方の文化の向上産業経済の振興を期し得る」とある。

昭和22(1947)年12月,文部省内には旧七帝大に加えて金沢,中国,四国に旧帝大型の総合大学設置の構想があった。しかしこの構想は,翌23(1948)年6月にはCI&Eと文部省との協議でいわゆる「国立大学設置に関する11原則」が検討され,1府県1大学の方針に落ち着く。昭和23(1948)年2月の時点では「金沢市民,石川県民はもとより広く北陸3県の住民の支持協力を懇請する」との表現は,北陸3県を巻き込んだ総合大学構想がこの時点でも生きていたことを思わせ,政策的には非常に微妙である。

いわゆる「国立大学設置に関する11原則」では「(ニ)新制国立大学の組織施設等は差し当たり現在の学校の組織施設を基本として編成し逐年これが充実を図る。」とされ,財政条件は極めて貧困であった。従って,8600万円と見られた創設費としての臨時費は,大部分は地元の負担となり,その捻出方法は「地元の公共団体及び民間有志者の寄付にまつ」よりほかはない,という状態であった。(「北陸大学について 昭和23年5月 北陸大学実施準備委員会」『創設資料 壱巻』)

昭和23(1948)年8月には,金沢大学実施準備委員会財務委員会では,23年度の目標額を県内1300万円,東京500万円,関西500万円とし,各郡市に寄付金額を割り当て,寄付を募った。

 

回覧用金沢大学について (『創設資料 壱巻』)

石川県・金沢大学実施準備委員会(昭和23(1948)年7月に北陸大学実施準備委員会から改称された金沢大学実施準備委員会となっている)

大学設置促進週間は,昭和23(1948)年5月と11月の2回行われている。(『金沢大学十年史』)

昭和23(1948)年5月10日から16日の第1回大学設置促進週間では,片町大和デパートで県下小中学生によるポスター標語の展覧会,街頭宣伝,公聴会,ラジオ放送,音楽会,ポスター・立て看板,街頭放送による広報活動が行われている。

昭和23(1948)年11月21日から26日の第2回大学設置促進週間では,金沢市中央公民館で金沢大学の内容を紹介する展覧会,片町大和デパートでは教育くじの賞品の展示があった。この時の賞品はミシン,服地,ゴム長靴,タオル,化粧石鹸であった。

また各包括校と城跡間の駅伝が行われている。「二十一日大学高専訪問リレー 参加校= 医大,薬専,工専,石師,青師,金沢工芸,七尾高,羽咋高,小松高,津幡高,一高,金沢高」昭和23(1948)年11月21日付北陸毎日新聞に「金大強調週間」の行事として紹介されている。金沢大学に包括される官立大学・専門学校と,昭和21(1946)年年発足の金沢美術工芸専門学校,この年の4月に発足した新制高校が参加している。

教育宝くじは昭和23(1948)年5月と11月の2回行われた大学設置促進週間の諸行事と平行して行われた。1枚30円,第1回(昭和23(1948)年5月10日発売)では1500万円,第2回(昭和23(1948)年11月10日発売)では2100万円を発行。この約半額,第1回では760万円,第2回では1000万円の収入があった。第3回教育宝くじは,大学発足後の,昭和24(1949)年8月に発行されている。大学での授業開始は9月2日。抽選はその数日後の4日に行われている。発行額は2100万円。収入額は1006万円。収入金は城内の校舎改装費等に充てられた。

第一回石川県教育宝くじ(左) 第二回石川県教育宝くじ(右)

 

 

 

初代学長決定

初代学長候補として,第一高等学校長・天野貞祐,東京文理科大学長・務台理作に交渉したが,実現していない。
両者はともに昭和21(1946)年8月発足の教育刷新委員会委員。委員会では,旧制高等学校の存廃について対立している。天野は旧制高等学校の「人文主義的な人格形成教育に強い愛着」を持ち,2年制の「前期大学」を構想し,その教育的特色を残そうとした。一方,務台は,能力さえあれば上の学校に進んでいける,進学するものの権利としての教育の機会均等の立場から旧制高等学校廃止を主張した。この対立は単に教育的対立ではなく,高等学校=帝国大学と師範学校=文理科大学との階級的対立でもあった。天野は,後,文部大臣になる。
昭和24(1949)年2月25日,文部省から新制大学創設時無責任者・金沢医科大学長石坂伸吉宛,学長候補者の推薦するよう指示があった。各官立校が候補者をあげていたが,3月8日,学長候補推薦について民主的な方法がとられるべしとの要望が,各校教授団から出された。14・15両日金沢医科大学石坂学長から各官立校に,京都大学名誉教授戸田正三を推薦するとの意志表示があり,18日,包括各学校在勤の3級官以上の文部教官及び専任講師369名により直接選挙が行われる。有効投票数301票中207票で学長候補者を戸田正三に決定。(『金沢大学工学部五十年史』)

4月22日開催の第6回金沢大学創設委員会(昭和24(1949)年4月6日発足,委員長・金沢医科大学長石坂伸吉,各学部2名の委員からなる)での報告によれば,22日石坂医科大学長が知事と会見,席上,学長候補に戸田推薦,学部長候補についても決定した。教官による選挙結果を金沢大学実施準備委員会の人事委員会(石川県知事柴野和喜夫,副知事土井登,金沢市長井村重雄,石川県商工会議所会頭西川外吉,北国毎日新聞社長嵯峨保二,各官立校長で組織)側に承認を求めたとになる。
この間,人事委員会内部で,第三高等学校長落合太郎を推す柴野県知事との調停があったという。(『金沢大学工学部五十年史』)

この決定は4月25日文部省に上申される。

戸田正三を学長に推薦 (『創設資料 四巻』)
金沢大学設立事務責任者 医科大学長石坂伸吉発
文部省学校教育局長 日高第四郎宛
金沢大学学長推薦の件
昭和24(1949)年4月23日起案
別紙 研究業績履歴書調書
5月13日の金沢大学創設委員会第8回委員会メモ(『創設資料四巻 2-1』)には,「大野事務官~中略~,戸田正三氏パージの件あり,目下解除近日中なるも開校に間に合わぬ場合事務取扱を置く要あり」とある。戸田の教員適格審査が開学を前に未了であったため,文部省は5月31付で学長事務取扱として鳥山喜一第四高等学校長に発令,しかし6月10日鳥山は解任。同日,暫定的措置として文部次官佐藤日出登がその任を命ぜられる。鳥山はその後富山大学長に就任する。
このいきさつは,医科大学側の反発によるものだという。(『金沢大学医学部百年史』)

電報 (『創設資料 壱巻』)
昭和24(1949)年9月10日受信
発信 文部省,宛名 事務局長
「戸田正三氏近く学長に発令の予定受け入れ体制を整備されたし」
学長が決定せぬまま,第1回入学式が昭和24(1949)年7月25日に挙行された。9月1日に授業開始。9月22日になってようやく戸田は学長に発令されるが,この日付は現在も学長の任期に影響している。11月には開学記念式典が行われた。

 

 

 

 

 

金沢城址を大学用地に

協議資料 北陸帝国大学組織試案
昭和21(1946)年8月6日
(在京顧問評議員会)協議資料
「場所 金沢市野田町,長坂町及組ミ入レラルベキ学校ノ敷地」とある。野田・長坂の旧軍施設を大学用地としている。
昭和20(1945)年10月22日,占領軍の県内進駐が始まり,金沢城址や野田・長 坂の旧陸軍施設に配置された。
昭和21(1946)年6月3日に結成した北陸総合大学設置期成同盟会は,同年8月6日,在京顧問評議員会を開催した。この時の協議資料では,金沢城址ではなく「金沢市野田町長坂町(の旧陸軍施設)及び組み入れらるべき学校の敷地」を大学用地としている。(『創設資料 壱巻』)

「金沢城址に関する件」(『創設資料 壱巻』)
石川軍政隊司令部APO713(本州金沢)発
石川県知事宛
昭和22(1947)年12月3日
「金沢城址利用に関する件」(『創設資料 壱巻』)
石川県知事 柴野和喜夫発
石川軍政部隊長宛
昭和22(1947)年12月12日

 

 

 

「石川軍政部長談話」(『創設資料 壱巻』)
昭和22(1947)年12月22日(昭和22年12月23日付『北国新聞』掲載)
石川県内では,昭和21(1946)年4月に北陸総合大学設置期成同盟会の結成を前に準備活動を開始,6月の結成式以降設置運動を行っていた。
同年11月30日に,「軍政部より増本(甲吉・石川県)内務部長を訪問,好意的見解あり。」(「北陸総合大学設置運動経過概要」『創設資料 壱巻』)とある。
中央では,昭和21(1946)年3月に第1次米国教育使節団の報告による教育改革が示唆され,8月には教育刷新委員会が設置されている。教育刷新委員会が,6・3・3に続く教育機関を,4年制の大学とし,さらに研究を継続する機関として研究科または研究所を設けるという,新制大学に関する大綱を決定したのはこの年の12月であった。教育基本法,学校教育法の制定は翌22(1947)年の3月。「好意的見解」が,後に実現する接収された旧軍施設の開放と大学設置を意味するならば,それが出された11月30日時点では,具体的な新制大学像は,まだ模索の段階であった。

「昭和22(1947)年8月27日石川軍政隊の好意的意志により県側及び直轄学校長等金沢城址を詳さに視察」し(「同上」『創設資料 壱巻』)」,「9月8日には直轄学校長と県議会との話し合いがなされて明確に城址を大学建設用地にすることを決定した。」(『金沢大学工学部五十年史』)軍政部からの文書での正式な通知は12月3日である。

「金沢城址に関する件」は,軍政部により接収された城址は近く県に返還される予定である,その際,北陸総合大学設立準備委員会に5カ年の条件付き借地権を与える,5年後に大学設立が実現していなければ,金沢城址は,金沢市が教育・リクリエーション厚生施設として利用することを可とするものである。条件として,直ちに大学設立の準備を開始し,包括される各学校が重複を避け学部を編成すること,及び旧軍施設の大学施設への転用に関する指示等をあげている。

以下は,「金沢城址に関する件」を受けた北陸総合大学設立準備委員会の様子である。

「この覚え書きを受け取った委員会はにわかに活気づき,趣旨に添う旨の下に立案された回答が送られ,また知事談話が発表される等内外交々多忙となり,会議は連日開かれた。」
「金沢城の確保なって直ちに委員会が副知事室で開かれた。平素ゼスチェアの少ない委員の顔もこの日ばかりは特別で子供のようなはしゃぎ方であった。数年にわたる労苦がここに報いられたのだ。まさに開拓者の喜びであった。」(「金沢大学の誕生」『金沢大学事務通報第1巻第9号』,山知外男,昭和25(1950)年9月)

金沢城址は16世紀半ばに加賀一向一揆の拠点である「金沢御堂」がおかれた地であるとして,真宗大谷派による蓮如450回忌を記念する「北国宗教大学」,あるいは総合大学における「宗教学部」の構想があった(昭和22(1945)年頃)。条件に示されている「7.真宗の仏教徒が前述の大学の管理に入る宗派に関しない宗教学部を設立することを欲しないならば真宗の古刹の址に記念碑を建てること」(「金沢城址に関する件」『創設資料 壱巻』)との条項は,この構想が断念されたことを示している。この記念碑は建立されていない。

 

金沢高等師範学校長庄司彦六とイールズの対談昭和24(1949)年1月14日
“ Mr. Shoji then reviewed briefly, the plans for utilization of to castle area at Kanazawa for establishment of the proposed consolidated university and asked for advice concerning it.
Undersigned suggested that the move be made gradually but with long range plans to avoid useless construction of new buildings in the city where they might better be built on the castle area.”
訳:庄司氏は計画されている総合大学設立に金沢城内を利用する計画について簡単に説明し,それについての意見を求めた。イールズは長期にわたる計画を徐々に実行し,市内に無駄な建造物の建設を防ぐため城内に建設するほうが良いということを示唆した。

この頃,昭和23(1948)年末から翌24(1949)年1月にかけて,軍政部から教育学部を城内に移すことを,2度にわたって勧告を受けている。

 

金沢大学薬学部長鵜飼貞二とイールズの対談
昭和24(1949)年7月9日
“Dr.Ukai discussed the possible use of part of the castle area at Kanazawa for a court of family relations and for a civic gathering place. Undersigned expressed the judgement that the entire area should be reserved for ultimate university use but that if cooperative arrangements could be made, perhaps on a temporary basis, for use also as a civic gathering place, it might be highly desirable.”
訳:鵜飼氏は,金沢城の一部を家族の憩いの場や市民の集会場として利用できるか討議した。イールズは,根本的に全区域を大学の用地とすべきだが,暫定を原則として協定がなされれば,市民の集会場として利用することも非常に望ましいとの判断を示した。

金沢大学創設委員会が4月に発足,開学準備にあたる。5月31日国立学校設置法により金沢大学が設置。6月15日から入試。6月18日金沢大学協議会が発足。第1回入学式は7月25日,城内では校舎改装工事中で,翌日から夏期休業に入り,授業開始は9月2日。
7月9日時点では,金沢城址では旧陸軍兵舎の校舎への改装工事が急がれていた。